旅する「渤海王国」➁
ー画像で語る万葉の世紀ー                 金沢星稜大学名誉教授 藤井一二
吉林省:図們江(ともんこう)流域をゆく―八連城・西古城へ
2006(平成18)年8月21日、私たち6名は、中国東北部文化遺産や観光資源を見学するため、富山空港を発ち(12:20発)、大連経由で延吉空港に到着した(23:50着)。翌日、事前予約してあった現地旅行社の専用車(ガイド同行)で、吉林省(延辺朝鮮族自治州)に位置する琿春(こんしゅん)・和龍(わりゅう)市の古代遺跡を目指した。以下は、そのミニレポートです。
8月22日、午前(琿春) 琿春市八連城(渤海国都城=東京龍原府遺址)、延吉から琿春まで公路で約110キロ。中朝国境の図們江に沿って琿春市に向けて北上する。車窓から目に入る河幅は、向こう岸に立つ人が見えるくらいの狭さに驚く。目的地は、渤海国三代王の大欽茂(だい・きんも)時代、785年頃から794年にかけて王城であった「東京城」(龍原府)の故地である。ガイドから遺址近くに到着したはず‥との案内。季節は初秋。見渡せば一面に広がるトウモロコシ畑。車から降り近くの人に尋ねるものの、撮影対象の遺址や標識は見当たらない。やむなく周辺の巡回を諦めて延吉市に戻る。遺址のみならず周辺一帯の景観を採録することの難しさを実感させられた。
この日の午後、琿春市と反対方向にある和龍(わりゅう)市の西古城(にしこじょう)を目指した。そこは渤海王城=中京顕徳(けんとく)府の遺址があった場所。中国の歴史書新唐書』地理志に「‥至顕州、天宝中王所都」とみえ、天宝期の742~755年頃にかけて王都の機能をもった。領域が拡張する渤海国にとって、西方(契丹)と北方(黒水靺鞨)の両面へ警戒・警備を要したはずで、東に寄り過ぎた位置にある中京城は長く続かなかったように思える。しかし、王権の中心が北方の上京城(龍泉府、黒竜江省寧安市)へ移っても、日本海沿岸域と新羅国に近接する中京城(西古城)は、城塞の機能を保持し将兵を常駐させたとみられる。近くに位置する龍頭山(りゅうとうざん)古墓群に、大欽茂第四王女である貞孝公主(ていこうこうしゅ)墓など王族墓が集中し、この一帯を含む日常的な警衛を西古城の「中京城」が担ったはずである。
西古城の遺址は、2000―2005年度にかけて発掘調査が完了し、報告書『西古城』は2007年9月に刊行(文物出版社)、巻末に日本語の「提要」を載せる。私たちが訪れたのは調査後の保存整備に入る時期にあたり、遺址内の集落(後に移転)につうじる小道の入口に、立ち入り禁止の看板が置かれていた。「西古城」の記念碑があり遺址一帯を望める場所から、山野の景観を撮影した。現地に詳しいガイドの同行によって、はじめて実現した巡見であった。日本における立案段階に、地図を眺めながら、国道302をバスで行けば所用時間は?‥、もし帰りが遅くなったら、近くの町や村に宿泊所があるのか?‥など、現地に入れば、いずれも現実的な発想とはいえないことに気づく。和龍市は、延吉市から公路302で龍井市を通過し、約60キロの距離。遺構の整備が済めば「再訪」したいと思いつつ、西古城の地を離れた。親切な案内のもとで撮影した遺址近くにある西古城の記念碑。何年か後、延辺大学の国際学会に招かれた折、遺址を遠望する場所まで行く機会があった。しかし、最初に撮影したあの記念碑の場所に立つことは叶わなかった。
〇画像 ➀西古城の記念石碑  ➁八連城・西古城遺跡の分布図  ➂中国東北の旅